戦国武将ヒストリー:縮景園の創始者・武家茶道上田宗箇流の祖「上田宗箇」

コラム

上田宗箇は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将でありながら、茶人、作庭家としても活躍した人物です。武家茶道である上田宗箇流の祖であり、広島藩の茶道文化に大きな影響を与えました。
生涯
1563年(永禄6年)に尾張国星崎(現在の愛知県名古屋市)で生まれ、幼名は亀丸、のちに重安と名乗りました。10歳で父を失い禅寺に入りますが、1582年(天正10年)に丹羽長秀に仕え、武将としての才能を発揮し始めます。
丹羽長秀:戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。信長・秀吉という二人の天下人に仕え、忠義を尽くした人物として知られ信長からは「兄弟」とまで呼ばれるほど、深く信頼されていました。清洲会議では、秀吉を支持し、織田信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)を後継者にすることを決定しました。その後も、秀吉の天下統一を支え、賤ヶ岳の戦いなどにも参加し、功績を挙げました。
1594年(文禄3年)には豊臣秀吉に仕え、従五位下主水正に任じられます。秀吉の側近として活躍し、文禄の役では明使引見の席に重臣として列席するなど、その信頼は厚いものでした。
茶道は千利休に師事し、その没後は古田織部との親交を深めました。武将としての経験を生かした豪放で武骨な茶風を確立し、上田宗箇流の祖となりました。
千利休:千利休は、1522年に堺(現在の大阪府堺市)で生まれ、1591年に京都で亡くなりました。戦国時代から安土桃山時代にかけての茶人、商人であり、「わび茶」を大成させた人物として知られています。
古田織部:戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、茶人、芸術家です。千利休の高弟の一人で、「利休七哲」の一人に数えられ、利休亡き後は「天下の茶人」と称されました。

1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いでは旧主の丹羽長重を支援したため、戦後は剃髪し宗箇と号しました。その後、各地を転々とし、1619年(元和5年)に浅野長晟に従って広島藩に移り、1万7千石の所領を与えられます。

浅野長晟戦国時代から江戸時代初期にかけての激動の時代を生き抜き、広島藩の初代藩主として藩の基礎を築いた人物です。
広島では縮景園の作庭をはじめ、多くの庭園を作庭しました。武家好みの豪壮な庭園を得意とし、石組や樹木の配置に工夫を凝らし、独特の景観を作り出しました。
1650年(慶安3年)に広島で亡くなりました。
逸話:茶杓(ちゃしゃく)や茶碗など茶器作りにも精通し、大坂夏の陣の際には「戦の最中に美竹を見つけて茶杓を削り始めた」という逸話を持ちます。
作庭家としても知られ、徳島城や名古屋城の作庭を手掛けています

上田宗箇流の創始者

 上田宗箇流の特徴

  • 織部の自由な発想や美意識を取り入れ、独自の茶風を確立しました。
  • 武将としての経験から、茶道においても実用性や規律を重んじたとされています。
  • 武家茶道: 武士のたしなみとしての茶道を重視し、実用性や規律を重んじます。
  • 古田織部の影響: 織部の「わび・さび」の美意識や、自由な発想を取り入れています。
  • 道具: 織部焼などの個性的な茶器を使用し、茶席の雰囲気を演出します。
  • 点前: 格式を重んじながらも、無駄のない洗練された所作が特徴です。男性と女性で点前の所作が異なります。
  • 男性は馬上の姿を意識した柄杓の扱いなど、直線的で外へ外へと向ける動きが多い
  • 女性は三千家の基本に近く、柄杓・蓋置・建水の運び出しは、全てを建水に仕組む

上田宗箇流の魅力

  • 武士の精神: 武士道に通じる精神性や、実用性を重視する点が魅力です。
  • 美意識: 織部の美意識を受け継ぎ、独自の美の世界を表現しています。
  • 多様性: 茶道だけでなく、華道や香道など、様々な分野に精通することができます。
まとめ:縮景園は四季折々様々な風景を見れることができます。しかし、その作庭した人物に対して知る機会はなかったのでしょうか?上田流の流派は今もなお継承されていてます。これを機会に観光名所ではなく違う視点から縮景園を訪ねると宗箇のわびとさびが感じ取れるのはないでしょうか?
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