- 安芸武田氏の誕生
- 安芸武田氏の拠点佐東銀山城とは?
- 銀山城の落城: 安芸武田氏の拠点であった銀山城は、毛利元就の執拗な攻撃に耐え切れず落城。これにより、武田氏は大きな打撃を受け、一層衰退が進みました。
- 内紛の発生: 武田氏内部では、家督継承問題などをめぐる内紛が発生し、勢力が分裂。外部からの攻撃に対して、まとまった力を発揮することができなくなりました。
- 大内氏の衰退: 安芸武田氏は、大内氏と同盟関係を結んでいましたが、大内氏が衰退すると、その庇護を失い、孤立無援の状態に陥りました。
- 勢力圏の縮小: 銀山城の落城後、安芸武田氏の勢力圏は急速に縮小し、他の勢力に侵食されるようになりました。
- 滅亡: 最終的に、安芸武田氏は毛利氏に滅ぼされ、その歴史に幕を閉じました。
安芸武田氏の誕生
安芸武田氏は、甲斐武田氏の一族が安芸国(現在の広島県西部)に移り住んで発展した武家です。甲斐武田氏と同様に源氏の一族であり、室町時代には安芸国の守護職を歴任し、地域に大きな影響力を持っていました
安芸武田氏の拠点佐東銀山城とは?
佐東銀山城は、広島県広島市安佐南区に位置する山城で、安芸武田氏の重要な拠点の一つでした。武田山城とともに、安芸武田氏の勢力を示す象徴的な存在として知られています。
-
自然の要害: 武田山南麓の標高410.9メートルの山頂を中心とした連郭式の山城で、自然の地形を巧みに利用した堅固な構造が特徴です。
-
築城: 鎌倉時代末期、安芸武田氏の祖である武田信光が安芸国守護に任命された後、領土防衛のため、武田信宗によって築城されたとされています。
-
銀山: 城の名前の由来となった銀山は、城のすぐ近くに存在し、経済的な基盤を支えていました。
-
佐東銀山城は、本丸を中心として、数多くの曲輪が連なり、複雑な縄張りを持っていました。自然の岩盤を利用した堀切や、桝形と呼ばれる防御施設など、当時の築城技術の高さをうかがわせる遺構が残されています。
安芸武田氏歴代当主
-
武田氏信: 安芸武田氏の初代とされる人物です。足利尊氏に属し、戦功を挙げたことで安芸国の守護職に任じられました。
-
武田信繁: 氏信の孫にあたる人物で、安芸武田氏の全盛期を築いたと言われています。
-
武田元綱: 信繁の五男で、佐東銀山城を拠点とし、安芸武田氏の有力な支族を率いました。
-
武田元繁: 元綱の子で、佐東銀山城主となり、安芸武田氏の最後の当主の一人となります。
-
武田信実: 元繁の子で、安芸武田氏の最後の当主とされる人物です。
安芸武田氏vs毛利元就
・戦いの背景と主な戦い
-
安芸国の覇権争い: 安芸国は、豊かな資源と交通の要衝として、多くの勢力がその支配を狙う魅力的な土地でした。安芸武田氏は、銀山城を拠点として安芸国の大部分を支配していましたが、毛利氏は徐々に勢力を拡大し、両者は安芸国の覇権を巡って激しく争いました。
-
毛利元就の巧みな戦略: 毛利元就は 安芸武田氏を追い詰めていきます。特に有名なのが、銀山城攻めの際の千足のわらじ(わらじに油をしみ込ませ火をつけ、太田川に流し、敵を欺いた。)を使った奇襲作戦です。この作戦により、武田氏は大きな打撃を受け、勢いを失いました。
-
有田中井手の戦い:有田城(現在の広島県山県郡北広島町周辺)で起きた安芸武田氏と吉川&毛利氏の戦い。毛利元就の初陣としても知られています。
-
銀山城の戦い: 銀山城は、安芸武田氏の拠点であり、難攻不落の要塞として知られていました。毛利元就は、この銀山城を攻略するために、様々な策を講じました。
安芸武田氏の衰退
-
銀山城の落城: 安芸武田氏の拠点であった銀山城は、毛利元就の執拗な攻撃に耐え切れず落城。これにより、武田氏は大きな打撃を受け、一層衰退が進みました。
-
内紛の発生: 武田氏内部では、家督継承問題などをめぐる内紛が発生し、勢力が分裂。外部からの攻撃に対して、まとまった力を発揮することができなくなりました。
-
大内氏の衰退: 安芸武田氏は、大内氏と同盟関係を結んでいましたが、大内氏が衰退すると、その庇護を失い、孤立無援の状態に陥りました。
-
勢力圏の縮小: 銀山城の落城後、安芸武田氏の勢力圏は急速に縮小し、他の勢力に侵食されるようになりました。
-
滅亡: 最終的に、安芸武田氏は毛利氏に滅ぼされ、その歴史に幕を閉じました。
-
まとめ:広島県の歴史に実は[風林火山]で有名な武田信玄とゆかりがあることは知られていません。これを機に安芸武田氏の歴史に興味を持ってはいかがでしょうか?