戦国武将ヒストリー:合格祈願はミソ?才蔵寺の笹の才蔵こと可児才蔵

コラム
可児才蔵(本名:可児 吉長)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将です。槍の名手として知られ、その勇猛さから「笹の才蔵」という異名を持ちました。

1554年、美濃国可児郡(現在の岐阜県)で生まれたとされる可児才蔵は、幼少の頃から武芸に秀でていました。
美濃国の戦国大名・斎藤龍興に仕え、その後、織田信長、明智光秀、前田利家、豊臣秀次、福島正則など、数々の戦国武将に仕えました。
特に、関ケ原の戦いでは、福島隊に属し、敵の首級を多数上げるなど、その武勇を発揮しました。

才蔵の豪快なエピソード

1、取った首に笹の葉を含ませたことから、“笹の才蔵”に

才蔵は最初、森長一(森長可)に仕えた。長一が諏訪山の城や大森上恵らを攻め、梶田に駐屯して首実検をしたところ、460余の首級を得た。才蔵は三つの首を引っ提げて現れ「16の首級を取りました」と述べた。長一が「三つしかないではないか」と言うと、才蔵は「取った首を全部持っては来れないので打ち捨ててきました」という。そこで長一が「では残りの13の首についておまえが取ったという証拠はあるのか」と尋ねると、才蔵は「私が取った首にはすべて笹の葉を含ませてあります」と答えた。長一が部下に命じて確認させたところ、口に笹の葉が入っている首が13あった。以来、可児才蔵は“笹の才蔵”として知られるようになった。(「名将言行録」)

2、正しいと思えば主君であっても忠告 わからずやはくそくらえ

才蔵が豊臣秀次(この時代は三好信吉と言ったが、まぎらわしいので豊臣秀次で統一する)に近習(きんじゅう)として仕えていた時のこと。「小牧・長久手の戦い」で秀次は味方が敗れたと聞き、急に本陣を進めた。すると前線で戦っていた才蔵が馬に乗って引き返して来た。驚いた秀次は才蔵に「何をしておる。早く前線に戻って戦って来い」といった。しかし、才蔵は「こいつらは槍の使い手です。どうか殿は早く退却なさってください」と秀次に忠告した。ところが秀次は才蔵のいうことを一向に聞き入れる様子はない。頭に来た才蔵は秀次に向かって「くそくらえ!」と吐き捨てて退いてしまった。果たして才蔵が進言したとおり、秀次は大敗を喫し、共に戦っていた池田恒興(つねおき)らは討ち死にした。(「名将言行録」)

3、戦場での馬は雨降りの傘と同じ

「小牧・長久手の戦い」で敗れた秀次が徒歩で逃げていたところへ、才蔵が馬に乗って通りかかった。敗軍の将が徒歩で逃げだすというのは命の危険にさらされるということである。「おい、才蔵。馬をよこせ」と秀次は才蔵に言った。しかし、才蔵は「雨降りの傘也(雨降りの日には傘が必要なように、今の拙者には馬が必要でござる。たとえ殿であろうとさしあげることはできません)」と言い放ち、さっさと行ってしまった。この一件は羽柴秀吉の知るところとなり、叱責を受けた才蔵は秀次の下を去り、世に埋もれてしまった。(「小牧陣始末記」)

徳川家康から称賛される才蔵:関ヶ原の合戦時、勝手な行動を禁じられていたが、才蔵は陣に近づいた敵を討ち取ってしまう。怒った正則は才蔵を謹慎処分にする。ところがおとなしく言うことを聞く才蔵ではない。翌日から笹を背負って密かに戦いに出かけ、首をとった敵将の耳や鼻、口などに笹を入れるとその場に捨て置き、こっそりと陣に戻っていた。笹は酒の異名でもあり、末期の酒と掛けたのではないかという説もある。戦いが済んだのち、首実検が行われた。才蔵は正則に謹慎中も実は戦いに行って首を取ったことを話すと正則は怒った。しかし、首をすべて確認したところ、17人の笹の葉をくわえた首が見つかった(20人という説あり)。これを聞いた家康は驚嘆し、才蔵に「笹の才蔵」という通り名を与えた。これによって才蔵の名は家康の記憶に鮮やかに焼き付けられたようだ。家康は正則に会うたびに、「才蔵はどうしておるか」と尋ねたという。

 

才蔵は広島城の門番を勤めていたという。しかし、老後は休憩中に寝転んで仮眠をとっていた。ある時、正則に仕えている小坊主が来て、才蔵に「殿からの贈り物です」と言ってウズラを手渡そうとした。才蔵は慌てて起き上がり、袴をはいてウズラを受け取り、正則のいる本丸に向かってお礼を述べた。才蔵はウズラを持ってきた小坊主に対し、「寝転んでいる自分に対して殿からの贈り物があると伝えるのは、殿に対してとても無礼である」と叱責した。これを伝え聞いた正則は「家来たち全員が才蔵のような心を持ってくれたなら、どんなことも私の思い通りに動くだろう」と言ったという。

最後の奉公先は福島正則 給料は部下と半分こ

主の元を離れた才蔵の噂を聞いた福島正則が700石で召し抱えたとある。福島家での面接の際、正則は才蔵に「何か得意なことはあるか」と尋ねた。すると才蔵は「長年修練した結果、髪を結ぶことが自分で上手にできるようになりました」と答えた。これを聞いた家臣たちは「才蔵はうつけかひねくれ者ではないか」とささやいたが、正則は「いやいや、後ろに目がなければ髪を結ぶことは難しかろう。それがうまくできるということは目の前のことならば何でも簡単にできるということであろう」と言い、才蔵を採用した。その後の才蔵の働きぶりは武功比類なく、正則の目利きは正しかったということだ。

才蔵には竹内久右衛門という信頼できる有能な部下がいた。これまでも才蔵は自分の禄の半分を久右衛門に与えてきたが、福島正則に召し抱えられた時も700石の半分350石を久右衛門に与えたという。

現在は合格祈願の神様?才蔵が残したものとは晩年才蔵は才入と改名し、仏門に帰依すると、広島城の東にあった矢賀山に所有していた山荘「竹葉軒」の跡に「才蔵寺」を建てた。日頃軍神である愛宕権現(あたごごんげん)を信仰し、自分はその縁日に死ぬことを予言していたといい、縁日にあたる6月24日(墓石には11月24日とある)に身を清め、甲冑を身に着けて長刀を持ち、床几(しょうぎ)に腰かけたまま息絶えたということである。慶長18(1613)年のことであった。墓標は通称「才蔵峠」の脇に建てられ(現在墓は才蔵寺にある)、心ある武士は馬を降りて水を供え、花を手向けたとされる。彼の菩提寺である才蔵寺には、「ミソ地蔵」という地元では有名な受験生の合格祈願のお地蔵さまがある。才蔵の主であった福島正則は広島城の石垣を無断で改修したとして武家諸法度違反に問われ、安芸・備後の所領50万石は没収。信濃国高井郡と越後国魚沼郡合わせて4万5千石に移封される。その後、浅野長政の次男である浅野長晟(あさの ながあきら)が広島城主となるが、才蔵はこれを快く思わず、広島城近くの小さな城に立てこもって反抗。攻められると好物の味噌汁を上から浴びせかけて戦った。兵糧攻めにされると周辺の人々に「城山のお地蔵様に笹の葉を供え、そこに味噌と米を乗せると願いが叶う」というまことしやかなうわさを流したところ、次々に米と味噌が集まり戦い続けることができたという。味噌は脳みそに通じるため、このような信仰が生まとされる。
(才蔵寺にある可児才蔵の墓)
まとめ:才蔵寺は聞いたことあるかもしれません。しかし、その元となる人物は意外と知られていません。可児才蔵は戦国時代、織田・豊臣・徳川と三代に渡り家臣となり生きぬいてきました。そして現在は受験生を合格に導く武将になっています。もしよろしければお寺に参ることで何か合格につながることがあるかもしれまん!!ぜひ訪れてくださいね!!
コラム旅行生活
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