知っているようで知らない、英国とスコットランドの歴史的確執:独立戦争から現代の独立問題まで

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英国とスコットランドの歴史的な確執は、中世から近世にかけて続いた独立国家同士の軍事的な対立と、合同後も残る文化・政治的な主導権争いに根ざしています。

この確執は、グレートブリテン島の南北を二分するイングランド王国とスコットランド王国という、異なる起源を持つ二つの国家の長きにわたる関係史です。


⚔️ 主要な確執の歴史的背景

 

1. 独立戦争(The Wars of Scottish Independence)

 

両国の確執の象徴とも言えるのが、13世紀末から14世紀にかけて勃発した一連の独立戦争です。

  • 発端: イングランド王エドワード1世がスコットランドの王位継承問題に介入し、スコットランドを征服しようとしたことから始まりました。

  • 英雄たち: スコットランド側は、ウィリアム・ウォレスロバート・ザ・ブルースといった英雄的指導者のもと、イングランドの支配に対して激しく抵抗しました。

  • 結果: 特にロバート・ザ・ブルースが1314年のバノックバーンの戦いで決定的な勝利を収め、スコットランドは独立を維持しました。この時代、イングランドはスコットランドを併合しようとし、スコットランドは主権を守るという構図が確立されました。

2. 国境地帯での絶え間ない紛争

 

スコットランドとイングランドの国境地帯(ボーダーズ)では、独立戦争の期間外でも、数百年にわたり小規模な紛争や略奪(レイディング)が繰り返されていました。

  • 「ハドリアヌスの長城」 : そもそもローマ帝国時代に、南のローマ支配地域(後のイングランド)と北方の「蛮族」の住む地域(後のスコットランド)を分けるために築かれた長城が、両者の文化的な隔たりと対立の原点の一つを示しています。

  • 「オールド・アライアンス」(古い同盟): スコットランドは、長年の宿敵であったイングランドに対抗するため、イングランドと敵対関係にあったフランスと歴史的な軍事同盟を結びました。これにより、両国の対立はヨーロッパ大国の紛争とも絡み合う複雑なものとなりました。

3. 宗教的・政治的な対立

 

近世になると、宗教改革と王位継承問題が新たな火種となりました。

  • 宗教対立: スコットランドが長老派教会(プロテスタントの一派)を中心とする独自の宗教体制を確立したのに対し、イングランドは国教会(アングリカン・チャーチ)を国教としました。イングランドがスコットランドの教会の自由を制限しようと試みたことで、紛争が再燃しました(主教戦争など)。

  • ステュアート朝の動揺: スコットランド王家出身のステュアート朝がイングランド王位を兼ねる「同君連合」(1603年)が成立した後も、国王の絶対主義的な政策やカトリックへの傾倒は、両国間の議会や国民との間に大きな亀裂を生じさせました。


🤝 合同後の確執(1707年以降)

 

1707年に合同法が成立し、スコットランド王国とイングランド王国がグレートブリテン王国として統合されましたが、確執は形を変えて残りました。

  • 合同の背景: スコットランドの財政危機と、イングランド側の王位継承の安定化という政治的・経済的な動機が強く、スコットランド内部には**「国家としての独立を失った」**という屈辱感が残りました。

  • ジャコバイトの反乱: 合同に反対し、スコットランドの伝統的な王位継承者(カトリック系のステュアート家)の復位を目指す反乱(ジャコバイトの反乱)が何度か起こり、連合王国政府に鎮圧されました。これは合同への根強い不満を示しています。

現代の確執(独立運動)

 

現代において、この歴史的確執はスコットランド独立運動として再燃しています。

  • スコットランドが保持する独自の法制度、教育制度、そして文化は、歴史的にイングランドとは別個の存在であった証しであり、自己決定権への強い要求の基盤となっています。

  • 特に、イングランドとスコットランドの間で政策(例:福祉、EUとの関係)に対する意見の相違が顕著になるたびに、「自分たちのことは自分たちで決めるべきだ」というナショナリズムの感情が強まっています。

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