屯田兵とは?意味や目的、冬の過酷な生活環境をわかりやすく解説

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屯田兵は、明治時代に北海道の警備と開拓を同時に担った兵士とその家族のことです。

明治政府は、ロシアの南下政策に対抗する北方の防衛(北辺警備)と、広大な土地の開拓、そして明治維新で職を失った士族の救済を目的にこの制度を設けました。1875年に札幌の琴似から始まり、約30年間続きました。

彼らは「兵村」に住み、普段は原生林を切り拓く過酷な農業に従事しながら、軍事訓練にも励む「農兵」としての役割を果たしました。冬の極寒や食料不足など想像を絶する困難に耐え、現在の道内主要都市の基礎を築いたほか、西南戦争や日露戦争などにも出動し、近代日本の形成に大きく貢献しました。

屯田兵にとって、北海道の冬は想像を絶する過酷なものでした。西日本など雪の少ない地域から入植した士族も多く、彼らにとっての冬は「生存をかけた戦い」そのものでした。

主な過酷さは、以下の3つのポイントにまとめられます。

1. 「兵屋(ひょうや)」の驚くべき寒さ

政府から与えられた家(兵屋)は、一見立派な武家屋敷風でしたが、実際には北海道の冬に耐えられる構造ではありませんでした。

  • 薄い壁と板囲い: 断熱材などはなく、壁が薄いため、吹雪の日には家の中にまで雪が吹き込み、**「朝起きると布団の上に雪が積もっていた」**という記録が多くの兵村に残っています。

  • 不十分な暖房: 基本的な暖房は「いろり(炉)」一つだけでした。煙を出すための通気口(煙出し)が屋根にあったため、そこから冷気が降り注ぎ、部屋を温めるのは至難の業でした。

  • 「シバレ」の恐怖: 気温がマイナス20度〜30度を下回ることもあり、家の中でも水や食べ物がカチカチに凍りつきました。

2. 食生活の苦しさと栄養不足

冬の間は農業ができないため、備蓄した食料で食いつなぐしかありませんでした。

  • 乏しいメニュー: 主食は米ではなく、寒さに強い「ジャガイモ」や「キビ・アワ」などの雑穀が中心でした。これらを塩煮にしたり、味噌雑炊にして食べていました。

  • ビタミン不足: 新鮮な野菜が手に入らないため、栄養バランスが崩れやすく、体調を崩す家族も少なくありませんでした。

3. 冬ならではの重労働

冬は農作業がない代わりに、軍事訓練や開拓のための別の仕事が待っていました。

  • 冬の木伐り: 夏の開墾をスムーズに進めるため、冬のうちに巨大な原生林を伐採する作業(冬伐り)が行われました。腰まで埋まる雪の中での作業は、命がけでした。

  • 命がけの除雪: 交通網が未発達だったため、食料や物資を運ぶための道を確保するために人力で延々と除雪を行いました。

  • 「雪目(ゆきめ)」の被害: 太陽光が雪に反射して目を痛める「雪目」に悩まされる兵士も続出しました。


エピソード:ロシア式ストーブの導入 あまりの寒さに犠牲者が出ることもあったため、後に「ペチカ」と呼ばれるロシア式の暖房設備が一部で導入されるなど、試行錯誤が繰り返されました。

このように、屯田兵たちは「銃」と「鍬(くわ)」だけでなく、**「北の大地の猛威」**とも戦い続けていたのです。

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