原爆ドームの今と昔|かつては広島で最もモダンな洋館だった?被爆から世界遺産への軌跡を辿る

コラム

広島の街を歩くと、元安川のほとりに佇むその姿に誰もが目を留めます。2026年、被爆から80年を超えた今もなお、剥き出しの煉瓦と鉄骨を晒し続ける「原爆ドーム」。

今回は、かつて広島で最もモダンと呼ばれた建築物が、どのようにして絶望の淵から「世界の宝」へと変わったのか。その「今と昔」の物語を辿ります。


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時を止めた貴婦人の祈り

——広島県産業奨励館から、世界遺産・原爆ドームへ——

広島の平和記念公園の対岸に立つその建物は、かつて「広島の顔」と呼ぶにふさわしい華やかな存在でした。しかし、あの日を境に、その役割は「過去を記憶し、未来へ警告し続けること」へと一変しました。

1. 広島の近代化を象徴した「黄金時代」

今から100年以上前の1915年、この場所にはヨーロッパの香りが漂っていました。チェコの建築家ヤン・レツルによって設計された「広島県物産陳列館(後の産業奨励館)」は、当時としては珍しい3階建てのレンガ造りで、中央には優雅な楕円形のドームがそびえ立っていました。

庭園には四季折々の花が咲き、夜には川面に窓明かりが映り込む。そこは広島の特産品が並ぶ商業の拠点であり、芸術が息づく文化の殿堂でもありました。当時の写真を見ると、洋装の紳士淑女が集う、活気に満ちたモダンな広島の姿を垣間見ることができます。

 

2. 1945年8月6日、8時15分の衝撃

その華やかさは、一瞬にして奪われました。建物からわずか160メートルという至近距離、高度約600メートルで原子爆弾が炸裂したのです。

猛烈な熱線と爆風。しかし、爆風がほぼ真上から垂直に吹き下ろしたことが、奇跡的な偶然を生みました。本館の中央部分は倒壊を免れ、鉄骨のドーム部分が飴細工のように曲がりながらもその形を留めたのです。中にいた職員の方々は全員が犠牲となりましたが、建物は「物言わぬ証人」として、その場に踏み止まりました。

戦後、瓦礫の中に立つその姿は、いつしか市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになります。

 

3. 「負の遺産」として世界に刻まれた記憶

戦後、ドームの処遇については長く議論が分かれました。「見るのが辛いから取り壊すべきだ」という悲痛な声と、「悲劇を繰り返さないために残すべきだ」という強い意志。その議論に終止符を打ったのは、被爆して亡くなった一人の少女の日記でした。

彼女の「あの痛々しい産業奨励館が、いつまでも恐ろしい原爆を世の中に訴えてくれるだろう」という願いに動かされた市民たちが、保存のための募金活動を開始。1966年に広島市議会が永久保存を決定し、1996年にはユネスコの世界遺産(負の世界遺産)に登録されました。

4. 2026年、復興した街を見守る「今」

現在、原爆ドームの周囲には、高層ビルが立ち並び、広島電鉄の路面電車が走り、平和な日常が流れています。数年ごとに行われる保存修理工事によって、崩れ落ちそうなレンガの一片までが丁寧に守られています。

ドームの対岸に立つと、かつての華やかさと、被爆の惨禍、そしてそこから立ち上がった人々の強さが一度に押し寄せてくるようです。2026年の今、原爆ドームはただの「遺跡」ではありません。それは、私たちが手に入れた平和がどれほど尊く、どれほど脆いものであるかを、静かに、しかし雄弁に語り続ける「現在進行形のスピーチ」なのです。

 


かつてのモダンな広島に思いを馳せながら、今、私たちが享受している平和を再確認する。そんな旅の目的地として、原爆ドームは今も世界中から人々を迎え続けています。

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